人まねじゃない『自分らしさ』


ちょうど還暦を過ぎた頃。
年齢の数が増え、身体機能が衰えてきたなぁと感じ始めた頃、長くしていた仕事(自営業)をリタイアしました。


やむを得ない事情で急なことだったので、自分では「一時休業」のつもりでした。
落ち着いたらまた再開しようと。

するとその直後に新型コロナが大流行したり、異常気象が深刻化したり、ウクライナ侵攻があったり。ほぼ同時期に世の中も激変し始める中で、直接ではなくても物価の高騰等々で、末端にいる自分(暮らし)も影響を受けることに。
ますます先が見えなくなってきて、「この先大丈夫?」って、たぶんほぼみんなが将来への希望よりも心配や不安のほうが勝っているであろう時代になってしまい、おそらくこの状況はすぐには変わらないだろうという気がしています。


そうして日が経つにつれ、「私にとっての、楽しさや幸福ってどういうもの?コト?」とか、「自分らしい生きかたってどんなの?」ってマジメに考えるようになりました。
それまでは「健康で最低限の生活に困らない蓄えや家さえあればなんとかなるさ」って緩い心づもりで、暮らしをスリム化し節約に励みつつ、のんきに暮らし(せ)ていたんです。

ところが、一年、二年と経つうち『自分がいる』現実世界はどんどんシビアになってゆき、「もっと本気で具体的計画的に暮らしていかなければダメだ、それで後々困るのは自分自身」と思うようになりました。

長引く戦争と物価高で当てが狂った上に、60代になってからの時間(老い)の加速ぶりが想像以上だったからです。


というわけで「よりよく生きる」「心豊かに暮らす」ことについて、これほど真剣に考えたり取り組んだことは、お恥ずかしいことに人生初な気がします。

そこで、自分自身についてもっと知ること(ワーク)を繰り返し、同年代かそれ以上で魅力的なかたがたのSNSや本を見つけてはヒントや参考にしようとしてきました。

結構な情報量になったと思うのですが、それでもいまだに、行きたい方向性というか、したいことが決まりません。


「とりあえず小さな変化からしていけば、そのうち見つかるさ」
と頭ではわかっていても、いざやってみると「これは違うな~。じゃぁ他を探してみよう」ということの繰り返しです。
ワクワクと心躍るようなこと、情熱のスイッチがぱちっっと入るような出会いもありません。


そんなわけでいつまで経っても決めきれなくて、自分という乗り物を引っ張ってくれる原動力となる「意志や望み」は空っぽで、空白のまま。
なのに砂時計の砂粒が絶え間なく落ちてゆくように、刻一刻と、時は過ぎてゆく。。。
そんな風にふわふわとフラついている自分が嫌で悶々とするようになりました。


でも。
簡単に決まらなくて当然だよ、という自分もいて。
だってすごく難しいことをしようとしているのだから。


そういえば、他の誰とも重ならない個性や生き方って簡単に見つかるものじゃありません。
それに、時々嫌でも「誰々はこうしてる。それでうまく行ってるみたい。楽しそう」ってステキな情報が目や耳に飛び込んできてはそれに飛びつきたくなっちゃう。
そうすることは簡単お手軽だけど、自分が一から創ったものでなければ自信がもてないだろうなと思うんです。
だからそういう「やり方」はできるだけ避けたいです。

「真似から入るほうが早いし賢い」と思うのだけど、人生や生き方にかかわることは別とも思うんです。


あれれ、なんか、愚痴や弱音になってますか?
いや、そんなつもりで書いていないんだけど、そうかもしれない。
自分では、アタマや気持ちが整理されたり途中で何か思いつくんじゃないかって思って書いているだけなの。


何もしないで、毎日ただぼんやり生きてるわけじゃないし、このままでいいと思ってるわけでもないのよ。
焦ってはいない(そうしようと気をつけてる)


けれど私は、これから自分が本当に「行きたい!」と思う道を見つけたいの。
それが自分の未来を支えたり形作る核になると思うからです。
絶対に、行き当たりばったりで生きていきたくはないのです。
なぜなら時間や命を浪費してしまいそうだから。
健康寿命まであと数年しかないというのに。。


でも、今回自分について新たにわかったことがある。

私は、できるだけ、自分のペースややり方を貫きたい人だった。
何かに制限されたり気兼ねすることなしに、(特に心やメンタルの部分で)強制や束縛をされたくない、自由でいたいのです。

誰かはわがままというかもしれない。
けれど、自分がそれがいい!と心から思えるなら(そして自分の考えや行動に責任を取れるなら)、周りの目を恐れずに、挑戦してみたい、と思うのです。


そんなこんなで今思うことがあります。

それは、自分や自分の人生に自信が持ててかけがえのないものだ満足だとか。
くじけずに頑張ろう、最後までやり遂げようって思えるのは、有形無形の大切なものや大好きなものがあるからでは?ということです。

それらを残りの人生の中で手に入れることも、この大変な時代を生ききる理由や目標の一つかもしれないからです。


人によってそれは、誰か人だったり価値観や行為といった目に見えないものだったり、品物かもしれません。
ただ今の私にはそういうものがないのです。

それは、(努力すれば手に入る)欲しいものとか、人との縁とか、情熱を注いで取り組みたいような目標や生きがいとか。
野心や欲望を持つことを避けてきたからです。
なぜならこれまでの私は、どんな欲望もトラブルや苦悩を引き起こす邪悪なものだと決めつけ、持たないようにしてきたからです。

けれども最近になって、それは間違ってもいないけれど完全な善や正解でもない、って気づきまして。
「適量」ならば欲は楽しみや喜び・希望を与えてくれ、人生をカラフルに彩るスパイスみたいなものだと納得できたからです。


よく、生真面目な人ほどうつ病になりやすい、といいますでしょう?

好き!とか楽しい!、面白い!、心地いい!っていうものがなければ、(変わり映えのない平凡な日々を送ってても)ワクワクして楽しいなぁとか、辛いことがあってもそれがあれば乗り越えられる!、とも思えないだろうと思うんです。

けれど私にはそれがありませんでした。
だからついに気力や我慢の限界がきて、自分も人生も、おかしな方へと向かっていってしまったのです。
それは失敗でした。
もうそんな生き方はしたくありません。

ゼロになった今、やり直したいのです。

人生の最期に、我ながらよくやった、やりきったなぁ、楽しかったなぁ、もう思い残すことはないと、そういう気持ちで旅立ちたいのです。
ところが「遊び方がわからないから」、何をどうすればいいのか、途方に暮れているという。


あ、そうか!
そこなんだな?、バリアになっているのは。
そっかそっか。

ということは、じゃあ "遊び方がうまい" 人を見つけて真似すればいい、ってことですかね。

でもそれは人まねになるんじゃないの?

いや違うよ。

コピーみたいにそっくりまねようとするんじゃなくて、アイディアとして借りればいいんだよ。

土台がなければどんな家も建てられないでしょう?
それは必要なことだから、悪いとか良くない/間違ってるとは言えないと思う。


正しさと賢さは分けて考えたほうがいいよ。
「正しくあろうとすること」が必ずしも「どんな場合も賢明だ。賢い」とは言えないでしょう?


なるほどねぇ。。


キリがないので今日はここまで。

書いてよかった。

視界がちょっとクリアになってきたぞ。





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